(文中の「私」は田辺聖子さんです)
・電話で近況を問うてくれる友人。
三七日(みなのか)ぐらいにかけてくる奴(の)は、
夫(おっちゃん)が亡くなってすぐの頃の、
二七日(ふたなのか)派とは、
微妙にトーンが違う。
二七日派はいつもに変わらず、
おちょくっていた。
おちょくるは、
ふざける、からかう、などという、
語感の大阪弁。
その後の手合い、
いつもは明るい奴なのに、
なぜか陰々滅々の風情。
「葬式に行かんですまん。
ワシ、
おっちゃんの写真見たら泣くか、思てな。
申し訳ないけど欠席した。
香典だけ送っといた」
「あれ、
供花・香典一切ご辞退、なのに、困るよ」
と私。
「オマエ、
えらい、声、明るいな」
「泣きの涙でいると思ったの?」
「いや、この前からオマエ、
マスコミやあちこちでインタビューされとるやろ。
それ見たらな・・・」
これが三七日派。
・陰々滅々のわけがわかった。
三七日ごろともなれば、
あちこちにおっちゃんの葬儀の記事や、
私のインタビューが出てくる。
これが、
「・・・(テンテン)」の、
お涙ちょうだいの定型。
“涙顔で弔問客を送迎する
セイコサンであった・・・”
“豪快に笑うカモカのおっちゃんの写真の下で、
悲しみに沈むセイコサン・・・”
という按配。
ライターの能力というより、
日本民族底辺の通癖であるらしい。
三七日派は、
それらを目にして、
陰々滅々になったのだろう。
・しかし、
おっちゃんの葬儀は暗くなかった。
弔辞は藤本義一サンにお願いした。
藤本サンは、
おっちゃんとの交情を、
淡々と語ってくださったあと、
みごとなオチまでつけられた。
お棺の中のおっちゃんがいう。
「ギイッちゃん、
もうやめんかい!
ヘタな作文やな。
それでは甲の上はやれんデ」
藤本サンいわく、
「当たり前でんがな。
香華(甲の下)でんがな」
みな、
吹き出すのを必死にこらえて苦しそう。
それで私は、
喪主あいさつで、
「こんな席ですが、
遠慮なくお笑いください」
といって、
20分ばかりしゃべった。
みなよく笑ってくれた。
文芸春秋さんは、
喪主あいさつを、
そのまま本誌に載せたいという。
私はメモを取らずにしゃべっていたので、
困ったが、アシスタント嬢が、
テープを回してくれていて、
助かった。
そんな具合で、
「『文芸春秋』3月号を見てね」
というと、
三七日派の友人は活気づき、
「ほんまか!
心配して損した。
ようし、一升瓶下げて今晩行く。
ついでに、くどいてこます。
おっちゃん、怒るなよ」
「ウチ、
アシスタント嬢もいるんだけど」
「ついでにくどく」
「96のおばあちゃんもいるよ」
「ええい!
3人ひとからげにくどくわい!」
・わたし、
田辺さんの愛読者の一人でありながら、
「カモカのおっちゃん」シリーズもすべて読破し、
文庫本ながら書棚に並んでいるのにもかかわらず、
ご主人が亡くなられた2002年当時のことは全く記憶になく、
今、思えば悔しい!思いがいっぱいです。
なんでかな?
よくよく考えてみると、
わたしの母が亡くなったのが、
2000年の夏でした。
忘れもしないのは、
母の四十九日法要の日が、
シドニー五輪の女子マラソンの日。(9月26日)
当日、
お寺さんも集まった身内も、
法要そっちのけでテレビのマラソン中継に見入って・・
お母さん、スミマセン
結果、高橋尚子さんが金メダルに輝き、
その後法要を始めたのです。
なので、
2002年といえば、
母のむかわりの次の三回忌の年。
当時は家族葬ではなかったので、
後々の法事もぬかりなくやっておりました。
2002年の夏も、
母の三回忌法要の準備で、
わたしは妹の力を借りて、(夫は現役でした)
案内状や料理、粗供養の準備に忙しくしていました。
読書を始めようかなあ?
という心の余裕ができたのは、
このブログをはじめた2006年ころからでした。
しばらく読書から遠ざかっている間に、
新しい作家の方が続出されて、
どれがいいのやら?
迷ううち、
「そうそう、昔読んだ本を読みなおそう」
になって、
田辺さんに行きついたのでした。
なので、
カモカのおっちゃんが亡くなられたことも、
遅れて知ったのでした。
当時、弔辞を読まれた藤本さんも、
お亡くなりになられて・・
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・40℃近い猛暑が続いた当地ですが、
東から西へ進む異例なコースをたどる台風12号。
当地でも、
午前6時過ぎからしばらく暴風が吹き荒れました。
今は雨が降っていますが、
風は収まった?
今後は、
西日本にかつてない広範囲に、
豪雨災害をもたらした中国四国地方を西へ進む台風。
どうかして、
二次災害を起こさぬよう願っています。